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2010年7月19日 (月)

道元は転生輪廻を認めていた

『沈黙の仏陀』の総論である第1章「沈黙の仏陀」について解説します。

まず、「まえがき」においては、「前来わが正伝せし法をさらに今世にもきくなり」という、道元の『正法眼蔵』の言葉を引いています。

その意訳として、「過去世で座禅したその自分が、いままた生まれたのだ。そして座禅する。

かくして、再び仏陀の法を悟るべく、耳ではなく、この全身できくのである」と書いています。

「なぜ道元の『正法眼蔵』をまえがきに引いてきたのか」と思う人もいるでしょう。
この『沈黙の仏陀』という本は修行論を中心にした本なので、「仏教の修行として、一般的にすぐ頭に浮かぶ」ということで禅を出したというのが、その理由の一つです。

もうひとつの理由としては、無我の解釈をめぐって、無霊魂説に傾いている間違いが禅宗の中にあまりにも多いように思われることです。

そのため、これを「まえがき」にわざわざ出したのです。

それから最近、医者で解剖学者の養老孟司という人が、医学だけにしておけばいいのに、宗教の領域にまで手を伸ばして、「道元禅師も『死んだらあの世はない』と言っている。だから、人間は脳で考えている存在であり、死んだらその後はない」というようなことを書いています。

そこで、道元の言葉を引いてきて、「あなたはほんとうに道元を勉強しているのですか。道元も生まれ変わりというものを認めていますよ」ということを出してみたのです。

結局、禅宗系統の人に、生まれ変わりやあの世を否定する人がかなり多いのですが、ほかの分野でも、道元を根拠にして、「霊魂やあの世はない」と言う人がいるので、「では、この言葉は何とする。これを説明せよ」と言っているわけです。

「前来わが正伝せし法」とは何ですか。「前にきいた法を、今世にもきく」と言っているのです。

では、その「前にきいた」とは、いつのことでしょうか。母親の胎内できいたのでしょうか。

それでは「正伝せし」とは言えません。

これはやはり、「私は昔にも修行した」ということです。

「そのときに、この仏法というものを学んだ」と言っているのです。

「昔にも仏法を学んだ。その同じ仏法を、また今回も学ぶのだ」ということなのです。

この「学ぶ」ということも、声聞修行であれば、説法を聞くことになりますが、「只管打座」を言った道元ですから、この場合はやはり、坐禅のことです。


したがって、「今世にもきく」とは、坐禅をして仏法を悟ることを言っているのです。

「坐禅をしながら大宇宙の理法を感じ取るということは、すなわち、釈迦牟尼仏の説法をきいているのと同じである」という考え方です。

そこで、「『前世でも勉強した法を、今回もまた坐禅を通じて実習し、学び取っているのだ』と道元は言っています。ご存じですか」というつもりで、「まえがき」にこれを出しているわけです。

このような意図については、「まえがき」では特にふれていませんが、

禅宗系統の無霊魂説、無転生輪廻説等に対する批判と、禅宗が安易に無神論、無霊魂説をとることに便乗して、

「仏教とはそういうものだ」というようなことを言いたがる人に対する批判として、これを少し書いているのです。



大川隆法「修行の王道とは何か」(1994年)より

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